私たちの母体であるLUCKY Co.,Ltd.が本社を構える山梨県甲府市は、今から約1000年前に、「御岳昇仙峡」の奥地「金峰山」で水晶の原石が発見されたことから、宝石の街としての歴史が始まりました。
江戸時代の天保五年(1834年)に京都の玉商人で「玉屋」の番頭であった弥助が、京都から甲州へ原石の仕入れに来た折りに、甲府市の金桜神社の人々に、金剛砂(ガーネット)で水晶を磨く技術を伝えた事から、水晶玉作りが始まりました。
江戸末期になるとその職人のほとんどが甲府市に移り住み、国内のみならず海外でも発売されるようになりました。
明治初期になると、加工技術や道具なども発達し、明治中期になると、水晶玉や置物に加え、宝飾用の水晶のカットも始まりました。原石の枯渇の問題などもありましたが、海外からの原石の輸入にも力を入れ、質の高い技術が継承されて行きました。
明治時代の足踏み式コマ研磨機による水晶研磨の作業風景。 | 大正時代になると、コマ磨機が自動化されました |
昭和初期になると、研磨技術が更なる飛躍を遂げ、リング、ペンダント、ブローチ、など、様々なアイテムが作られるようになり、経済の発展とともに国内最大の宝飾品の産地としての基盤が作られました。
現在は、1000社を超える業者が存在し、日本のジュエリーの1/3が山梨県の甲府市で作られおり、国内最大の産地として知られるようになりました。
LUCKY Co.,Ltd.は、1937年、初代望月實が水晶やメノウの卸売りを目的として、当時としてはとても斬新な「株式会社ラッキー商会」の名の下に創業しました。
2代望月政男は、東芝の原子力部を退職し、1967年年社長に就任します。前職のキャリアを生かし、それまで全ての在庫管理を手作業で行う事が慣例化していたジュエリー業界において、いち早くコンピューターを取り入れ、飛躍的な業績アップを遂げました。
1988年には中国大連に工場を設立し、より生産力を高める事に成功し現在も安定した経営を続けています。また、海外展開を視野にいれ、中小企業では珍しく外国人の起用にも早くから取り組み、現在も社員の約1割が外国人で多岐にわたって活躍しており、グローバルな商品の展開や販売を可能にしています。
2005年、3代望月直樹が28歳の若さで社長に就任します。父政男同様、前職のパソナ、リクルートという異業種での経験をジュエリー業界に持ち込み、更なるITの活用と、「Collaboration」と「Communication」をテーマに新しいヴィジョンのもと、より開かれたジュエリーの可能性を探っていきます。
2013年には甲府本社屋を改装し、より身近にジュエリーの楽しさを体験出来る施設として、ラッキーオープンファクトリーをオープンさせました。www.lucky-factory.jp
母体のLUCKY Co.,Ltd.培った経験やノウハウをもとに、私たちラッキーアンドカンパニーは、地元山梨県をはじめ、日本の全国の地場産業活性化にも精力的に取り組み、ジュエリーの垣根を超えて、デザインやクリエイティブのちからで日本を元気にする、様々な取り組みをおこなって行きたいと思っています。